まるで水の中にいるようだった。(ようだった、はおかしいかな)水、みず。おおきくて深い、海の中にいるみたい。海の中から眺める水面はゆらゆら、きらきら。ただよう私を水面ごしの空が見下ろしている。私は、たどりつくことができないのだ。地上に上がることも、水面から顔を出すことも。太陽にあたためられた生温い水の中で、私はひとり目を閉じた。(救い上げてくれる誰かを夢に描きながら。) 夜の風は思いの外やさしく私の肌を撫でていった。首筋に絡まる髪を、潮の匂いを含む風がそうっと流していく。月は見えなかった。下駄で踏み締める砂浜は私の爪先を徐々に汚していく。綺麗にぬられたマニキュア。(もっともっと砂にまみれてしまえばいいのに。)波打ち際まで歩を進めれば、浴衣に海水がぴちゃり、とはねた。空をひとり仰ぐ。どんより重たい夜の空。どこかで花火の音がした。 このまま海に浸かってしまえば私も人魚姫みたいに泡になって消えてしまえるだろうか。一歩足を踏み出せは、爪先が海水に触れる感触がした。(逃げるようだ、と言われても構わない。)(だってあの人は、) 「……何してやがる」 耳の、ほんとうに近くで低い声がした。声音にたしかに怒りが含まれていることは感じとれるのに、どうしてか私の胸はときめいてしまう。声と同時に強い力で引っ張られた腕がいたい。(いたいのに、) 「……おい」 彼が再度そう呼びかけるけど、私は頑なに俯いて、引いては返す小さな波を目にうつしていた。爪先が、ぬれる、ぬれる。綺麗にぬられたマニキュアはもうずいぶんと砂で汚れていた。 「………」 もう一度、さらに強く腕を引っ張るものだから、下駄という不安定な履物を身につけていた私は危うく彼のほうへ倒れてしまいそうだった。そんな私を抱き留めたのもやっぱり彼で、なんだかすごく悔しくて哀しかった。彼が呼んだ私の名前の余韻が温い風にとけてきえていく。それでも私はふりかえらなかった。高杉なんて、嫌い。大嫌い。そう胸の内で何度も繰り返していた私の頬に涙が流れて砂浜にひとつ、落ちていった。(きらいなのに、)(そばにいてほしいと思う) 私の頑なな態度に痺れをきらした彼はひとつ小さく舌打ちをすると些か乱暴に私の腕をはなした。宙ぶらりんになって、離された反動でゆるく揺れる私の腕。(さみしいなんて、思っちゃだめ)だけどやっぱりこころがいたい。彼の心が読めないと、もうずっと私はひとり、ただよっていたのだ。彼は私の恋人じゃ、ない。手に入れることなんて絶対に不可能な恋だってわかってた。(でも、あきらめきれなくて)今日までずるずる私は私の恋心と葛藤してきたのだ。遠くて遠くて触れられないのに、時々すごく近いこの関係がもどかしくてじれったくて。ずうっと高杉という男の中でただよっていた。(でもでも、もういやだったの)いつか彼への恋心で溺れ死ぬくらいだったらいっそ夜の海で溺れて死んでしまえ、と。 黙ったままの私たちを波の音とゆるやかな風がとりまいている。私から零れ落ちた涙は一粒だけで、流れた頬もすっかりもとどおりだ。ただ、右腕だけはじんじんじんじん痛みをうったえているけれど。私から話すことはなにもなくて、本当なら今彼に現れないでほしかったのに。 (うそ、)(わたし、どこかで期待してた) 「高杉。」 ようやく喉からでた私の声は小さくて弱々しかった。(ほんとうは、言うつもりなかったのに) 「あたし、」 (だけど高杉が私を見つけてくれちゃったから) 「……、」 (決心、鈍っちゃった、よ) 口先だけで呟いた言葉。声にして伝えることは、やっぱりやっぱりできなかった。後ろに感じる彼の視線に怯えてしまう。また、沈黙が流れた。今度は風さえふかない。波が汚す、私の爪先。浴衣もだいぶ潮風でべたべたになっていた。(私やっぱり泡になっちゃいたいな、)すこし羨望の眼差しで海を見つめた私の視界が急に真っ暗になった。(え……)瞬間香った彼の、におい。そっと自分の目元に手をやれば、そこにはすでにおおきな手があった。(めかくし、)瞼ごしに伝わる体温。なにも、みえない。 「たか、すぎ…?」 戸惑いながらもすぐ後ろの気配にまたときめいてしまう。いまなら彼の艶やかな黒髪が風にゆらめく音さえきこえてきそう。 「てめぇが見ていいのは俺だけなんだよ」 言葉とともに開け放たれた視界。一瞬も息をつく暇なくおおわれる、くちびる。開かれたままの私の目にうつるのは海でも空でも砂まみれの爪先でもなく。(高杉とのキスは少しだけしょっぱい潮の味)しばらくして少々乱暴なくちづけがおわった。私の後ろからのぞきこむようにキスをした彼が身体をもどすのにつられて私の身体も自然と彼のほうをむく。真っ暗だと思っていた空にはどんよりした雲に覆われながらも月が姿をみせていた。その淡い月明かりの元で薄く笑う彼は、やっぱり私のおうじさま。私の世界は高杉という海に存在してるにちがいない。 「おうじさま、」 一言そう呟いて私も小さく笑えばおうじさまは「ハッ」なんて嘲笑しながら月を見上げた。でもその横顔がほんとうに穏やかだったから。(どうやら私は泡にならずにすんだようです)
プラスチックマーメイド
(ほんとはね、)(だいすきだよ)(080731亜夜) |