振り返って、あたしの目に飛び込んできた彼はやっぱり白いユニフォームを茶色に染めて、額から汗が流れるように肌を伝っているのが暗くてもわかった。
頑張っているんだ、なんて今更かもしれないけど。彼の眼鏡の奥の瞳をただ見つめながら同時に居た堪れない引け目のような気持ちに襲われる。あたしには、何もない。いつもと違う空気、場所、時間で会ったためかはわからないけれど、何故だかすごくそれを肌で感じてしまったんだ。











Como por encanto












お互い見つめあったまま時間だけが過ぎていくようで。ふとそんな空気につらくなって逃げるように足がぴくり、と揺れる。だけど心のどこかではそれを引き止める自分がいる。逃げたい気持ちとここにまだいたい気持ちが相まって足はまるで縫いつけられたみたいに動かなかった。逃げるだけじゃ駄目?このまま別れたら、何も変わらない?












彼のいつも笑っている顔の奥の感情をもっと知りたい。表面だけじゃなくて、彼のいろんな面をもっと知りたくて。















あたしは無意識のうちに彼が離れないようにユニフォームの裾を掴んでいた。距離のせいかギリギリ届いた手先は僅かに震える。そのままゆっくりと顔をあげて、言葉を発しないまま、といってももういっぱいいっぱいで口を開くこともできなかったけど、彼の濃い茶色の目を見上げるようにそっと見つめた。













微動だにせず、ただあたしを見つめ返してくるだけの彼。このまま彼が好きだと打ち明けたいけれど、いざとなると弱気になって。乾いた口からは言葉がでてこない。掴んだままのユニフォームも伸ばしたままの手が痺れてきて離してしまいそうだ。何事もなかったように今この手を離して帰りたい。それ以前に挨拶だけして帰ればよかったんだ。ぐるぐると後悔にも似た気持ちが頭を巡る。嗚呼でもあたし、このまま帰るなんてやっぱり出来ない。












吸い込まれそうな彼の深い瞳を見つめ続けて、なんだか瞬きをしても視界がぐらついてくる。それほどの長い時が過ぎて、ふっ、と突然ユニフォームを掴んでいた手が重力に負けて触れていた布の感触を手放す。それに「あっ・・」と声を漏らす間もなくあたしの手は彼の大きな手に掴まれていた。そのままゆっくりあたしの手の指は彼の指と絡められて。まるで魔術にでもかかったようにあたしはただ成されるまま彼の目だけを見つめる。絡められて一つになった手が優しく、だけど有無を言わせない強い力で彼の方に引き寄せられる感覚がして。突然の事に動きを停止していたあたしの身体は軽くよろめいた。それを受け止めるように、小さな衝撃とともに彼の胸板に寄りかかる形となって。伝わってくる体温にぼんやりと身をまかす。どくん、どくんと少しだけ速く鼓動する心音がどこか心地いい。





























耳元で擽るような低くて優しい響きが鼓膜を通って脳髄に浸透していく。その声につられるように顔をあげた。視界に写ったのは流れる彼の茶色い髪と頬を包む大きな暖かさで。その温度にそっと目を閉じて、降ってきた唇は軽く押し当てられただけですぐに離れた。至近距離に位置する彼の眼鏡越しの瞳。唇は、一瞬しか触れ合っていないのにまだそこだけやんわり温かい。ふっ、と目の前の瞳が柔らかい弧を描いてまだ魔法にかかったようにふわふわ浮かぶ思考の中であたしの身体は彼の身体に包まれていた。片手はまだお互いの指が絡められたまま。彼の肩越しに見える夜の空。少しだけ視線をあげればいつからだろう、彼の背後に眩しいくらいに光った月があって、緩く風があたしの髪と彼の髪を揺らしていく。
















何だかわけもなく涙が浮かんできて目の前がぼやけて滲む。彼の肩越しの月もゆらゆら二重にだぶって写る。そんな時耳元で微かに彼の吐息が聞こえた。まるでそれはいつものように悪戯気に笑っているかのようだ。そうして彼はあたしがもう少しで泣きそうなのが不思議なことにわかったのだろう。背中にまわされていた手が頭に移動して、宥めるようにぽんぽん、と何度も何度も撫でられる。













あたしを取り囲むすべてのことがもうどうでもよくなるような、反対にあたしのまわり全てに感謝したくなるような気持ちが溢れて溢れてあたしの心をいっぱいにする。












御幸が好き。御幸が大切だ。











あたしはもう彼無しじゃ生きていけないのかもしれない、なんて少し大げさだけど。この恋はこれからの長い人生の中の一つの通過点にすぎないとしても。
















冬の訪れを告げるかのような少し肌寒い秋の風を思い切り吸い込んだら、瞳に溜まっていた涙がすっ、と頬を伝って顎から首に流れていった。少しだけクリアになった視界に写る月に今までにないくらい幸せな気持ちで小さく微笑みかけて。
















恋愛があたしの世界の中心になるなんて、今まで考えたこともなかった。












御幸が、あたしの世界の全てになるなんて。













そうそれは








Como por encanto












まるで、魔法のように。
























(世界で一番、愛してる。)


Como por encanto
=まるで、魔法のように。

(スペイン語)
(071104 如月亜夜)