「さん、これもよろしくね」 「あっ、はい」 HRで使うであろうプリントを両手で抱えながらまた渡された冊子を隣にいた日直の子とわけて持ち職員室を後にする。ふと窓から見下ろしたグラウンドに懐かしさのような感傷が胸をすぎて、それに苦笑しながら視線を先へと向けた。 Como por encanto「お疲れ〜」 「ほんとだよ〜・・」 今日は日直の当番にあたっているあたしは朝から掃除やら授業で使うものを運んだりやらで授業の休み時間も満足にとれない。それに労いの言葉をかけてくれた友達の近くでぐったり椅子に腰掛けて頭を机にもたれさせた。少し友達と会話したらすぐにチャイムの音が辺りに響きわたり授業の開始を知らせて。のろのろと自分の席について、礼を待たずに椅子にどっぷり座った。例によって授業は世界史で、普段使わない筋肉まで使ってお昼前だというのにすでに疲れ果てていたあたしは諦めにも似た気持ちで手足をだらしなく伸ばしたままぼんやりと黒板を見つめた。 黒板に現れては消えていく白や黄色を目にうつしながら耳を素通りしていく教師の声。身体は疲れているのに何故か眠くはなくて。暇つぶしにクラスを見渡す。 (あ・・) もう癖のような感覚で自分の左斜め前に目をやったあたしは妙な喪失感に襲われた。今あたしの目にうつる後ろ姿は少し眺めの茶色がかった髪ではなくて。そうだ。選択授業だから、彼とはクラスが違かったんだ。そういえば今日は朝から彼の姿を見ていないし、話してもいない。朝錬も今日は日直のせいで見に行けなくて。運の悪いことにその後は移動教室が続いてもうお昼まであと一時間だというのに彼との接点がなかった。つい最近まではそんなのがあたりまえだったというのに。でも彼と知り合ってしまった以上、もう元には戻れない。もうあたしの心は、目は、耳は必然的に彼を捕らえていて、いつもより少しでも多く話せた日は嬉しいし、逆だと寂しくてその日一日が退屈に感じる。 彼はあの悪戯気な顔ですんなりあたしの心にはいってきてしまったようだ。普段は一見真面目そうには見えない彼は、だけど本当はずっと一生懸命で、そこらへんの男子なんかよりもずっときちんと「自分」を持っている。尊敬しながらも時々あたしは彼の隣にいてもいいのかなんて不安になって。彼に比べるとあたしはまだまだ子供で自分の面倒さえ見きれていない。負い目を感じながらもそれでも彼をみると胸が高鳴って。恋は不思議だ。今日もよく晴れた景色を窓から眺めながらゆっくりと時間はすぎていった。 お昼を食べて、その後は体育の授業で。本当に今日は彼と話してないなどと思いながら更衣室から帰って教室に着く。教室に入ってすぐに目は習慣のように彼の姿を探しにかかっていた。廊下から入ってすぐのあたしの席の左斜め前。いつも頬杖をついて静かにしている彼は、今日はぐったり机につっぷしている。だらんと前に伸ばされた大きな男の子の手に自然と目が吸い寄せられながらそっと彼に近づいて。まるで何年も話していなかった人と話す時のように心臓が一瞬柔らかく鼓動する。 「御幸一也くーん」 僅かに緊張で強張る顔を隠すようにわざとおどけてそう呼びかけてみた。それと同時につっぷしてる彼の目には見えないだろうが緩く手も振ってみて。 「御幸ー?」 もしかして、今日の練習がそうとうきつかったのだろうか。だとしたら起こさないほうがいいのかもしれない。彼に話しかけることで頭がいっぱいだった自分を恥じるように力無く振っていた手を戻そうとした。 「!」 さっきまでだらんと垂らされていた彼の大きな手があたしの手首をやんわりと掴んでいて。掴んだ手首はそのままでゆっくりと顔をおこした彼はまだ半分机に身体を預けたまま斜め向きであたしの視線を捕らえる。予想外の事に頭も身体もついていかずただされるがままのあたしに、いつもなら意地悪な言葉のひとつでも吐く彼が、今はどこか真剣な目をしていた。 「・・」 少し掠れ気味の低い声が、射抜くような視線とともにあたしをその場に固定したように時間をとめて。初めて彼に呼ばれた自分の名前は苗字で呼ばれていた時の何倍も胸が躍る。声の余韻がまだ漂う中、あたしは掴まれた手首を動かすことが出来ずに、かといって何か言葉を発することもできなくて。ここが教室だとかそんな事は既にあたしの頭には残っていなかった。どこか彼とふたりきりでいるような感覚さえして。 「今日お前・・朝来なかったよな?」 「あ・・」 あたしの目から未だ視線を逸らさずにどこどなく低い声で彼はそう呟いた。一瞬それに反応できずに小さく口を開いただけのあたしはそうだった、と漸く落ち着きを取り戻して。それから今日日直であることを彼に告げる。 「日直・・?」 「うん、そう。言い忘れててごめんね」 彼のポカンと開いた口を少しおかしい気持ちで微笑みながら見つめて。少し時間が過ぎると彼は大きく息を吐き出しながら大きく後ろにのけぞった。 「御幸?」 行動の意味がわからずに彼の名前を不信そうに呼んでみるも反応がない。ふと、まだ掴まれたままだった手首の存在を思い出して、随分冷静になっていた思考はここが教室だということを思いださせる。 「御幸、手・・・」 軽く手を揺らしながらそう言い掛けたあたしは目に飛び込んできた彼の笑顔に続けようとしていた言葉をあっさり忘れてしまった。悪戯っぽい表情は変わらずに、だけど何だかいつもよりその笑顔が眩しくて。胸が一層強く脈打つのを感じながらあたしはどこか言い表せない不安な気持ちにも襲われていた。彼との距離が近づいていく度に嬉しさと同時にこれ以上近づきたくない気持ちが大きくなっていく。彼の気持ちが見えない今、あたしばかり好きの気持ちが増えていって、いつか突然彼に離れていかれるのが怖い。あたしの中で彼の存在が確かなモノとして居場所をしめるほど臆病になっていく。 まだ掴まれている手首が少し熱いような気がしながら、永遠にこの手が離れなければいいのに、と少し寂しい気持ちで彼に微笑みかけた。 → (071009 如月亜夜)(手に入ろうとすればするほどそれを手にした時が怖くて。) |