「御幸!?」 自分の口から出た久しぶりの彼の名に目の前の出来事に驚くのと相乗して何故か少しだけ泣きそうにもなった。 Como por encanto悩む、という行為は生きていく上で必要不可欠な行為なのだろう。悩みによって人は成長し、また精神的に強くなったりするのかもしれない。絶不調の時よりかは大分マシになった心持ちでまた今日も小気味良い音と繰り返される練習風景を眺める。時間がたつことによりなんとなく方向がうっすら見えてきたあたしの心は、だけどまだ彼に近づくことを躊躇してもいて。何かきっかけさえあれば。そう思いながらもどこか人任せな自分が情けない。また少し唇を噛んで、胸の内を忘れるように目を練習風景に凝らす。 (あ・・御幸・・) ふとあたしの目が捕らえた彼の姿。ここ最近遠くからしか見ていない彼をぼんやり目にうつして。胸の中心が微かに疼くようなむず痒さに視線を逸らしたくても何故か逸らせない。太陽の光を受けて高らかに笑う彼が、眩しい。何だか急にどうしようもなく彼と話したくなった。彼の声を聞きたい。湧き上がるこの衝動の名前は知らないけれど、悩んでいた反動もあるのだろう。だけど、やっぱり踏み出せない。何て声をかければいいのか。そして付きまとう、彼に拒絶されないかという不安が拭えなくて。 一瞬大きくなった自分の気持ちを抑えるように収縮していく心は頭はいったいどうしたいのだろう。依然として逸らせない視線を彼に向けて。 「御幸!?」 あたしの視線の先でグローブを構えていた彼は、今投げられたボールをとり損ねた。後ろにそったグローブがボールの威力を物語っているようで。口から当たり前のように飛び出た彼の名になんだか長い間この名を口にしていなかったような気さえして。だけど、それよりも。グローブを外して手首を振っている彼が目にうつって、どこか怪我でもしたのだろうか。フェンス越しのあたしは彼への距離は遠くて様子がよくわからない。だけど、でも、心配で。いてもたってもいられなくなる、とはこういう状態のことを言うのか。どこか冷静に分析する自分を感じながらあたしはいつも見ているだけだった彼のいるグランドへかけだしていた。 幸い彼の怪我はかすり傷という程度のものだった。 「御幸!!」 血相をかえて飛び込んでいったであろうあたしを見て彼はいつもどおりに少し目の奥で驚いてからすぐにあの悪戯気な顔で笑って大丈夫だと言った。 「でも・・珍しいね・・」 微かに赤くなっている彼の手のひらに目をやりながら、普通に話せている事実に少しだけ戸惑いもして。そのまままた彼に目をやると、ばっちり視線があった。あたしは二、三度瞬きをして。だけどいつもは余裕な顔で笑って何、ときいてくる彼が今はただあたしを見つめるだけだった。 「御幸?」 「いや・・」 問いかけの意味をこめて彼の名を呼んでみたけど、彼は小さくそう漏らすとあたしから目をそらしてしまった。それに僅かに反応する心臓であたしもつられるように彼から目をそらす。やっぱりもう前みたいには戻れないのかもしれない。あたしの気持ちの整理がついても彼はもうあたしが嫌になってしまったんだろうか。逃げたくなる気持ちを堪えてその場に佇んでいるのが苦しくなってくる。でも悪いのはあたしだし、彼をせめられない。だんだん落ちていく気持ちのまま自然と視線も地面を見ていて。 「やっぱ野球してる時に注意力散漫はやばいか」 「・・・・?」 聞こえてきた自嘲ともとれるため息とともにそう言った彼の言葉にゆっくり顔を上げる。あたしが顔を上げるとふっ、と彼の視線もこちらを向いて。そのままニカッと笑った彼の笑顔に見とれるように目が離せない。そうしてはっはっは、と笑い声を零しながらあたしの頭にのっかる彼の手。ポンポン、と軽く叩かれるいつもとは違って、今日はあたしの髪を撫でるようにゆっくりそれは前後する。久しぶりに肌で感じる彼の空気にまた気持ちがせりあがって溢れそうだ。好き、と気を抜いたら口からでてしまいそうで。 「練習いいの?」 大きな、いつもグローブを包んでいる彼の手の温度を感じながら照れ隠しのようにそう言ってみる。離れたいわけじゃなくて、ホントはもっとこの手の温度や重みを感じていたいのだけど。 「ま、少しくらいなら平気っしょ」 「そんな事言って・・二軍の人に抜かされても知らないからね」 少し睨みながら彼にそう言って、彼はそんなあたしの言葉にまた陽気な笑い声でかえした。少しあたしの目が涙目になっていることを気づかれないようにそっと彼から視線をはずして。近づいてみれば、彼を避けていたことが馬鹿みたいに思えてくる。だけど、きっと離れていた時間があったからあたしは自分の気持ちを再確認できたんだ。悩んでいた時間は無駄なんかじゃないと思いたい。そして、そんなあたしをまたいつもと変わらず受け入れてくれた彼に言わないけど、感謝してる。 「」 変わらない、あたしの名前を呼ぶ彼の声。だけど今はその短い単語に込められた彼の響きが嬉しくて涙が瞳ギリギリにたまる。あたりまえのように名前を呼んでもらえることが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。 「・・何?」 目線を合わせたらきっと洞察力の鋭い彼の事だ、あたしが泣きそうになってることだって気が付くにちがいない。だからわざと視線は合わせずに少しぶっきらぼうに。 「なんでも」 そう言って笑う彼の顔を視界に少しだけ収めながらまだ乗せられたままの手の重みを再認識して。ゆっくり鼓動する自分の心音に耳を澄ますように一瞬だけ目を閉じた。 → (071014 如月亜夜)(とまらなくなったら、あたし、どうすればいい?) |